神の子らと人の娘たち (Sons of God, Daughters of Men)
福音書に明らかに見られる、悪霊たちが身体を求める渇望は、少なくともある意味で、この性的経験への飢えと並行関係を示している。
— デレク・キドナー
1947年、死海近くで羊の世話をしていた一人のアラブ人少年が、偶然にも古代の洞窟を発見した。そこから、やがて死海文書、あるいはクムラン文書として知られるようになる、非常に貴重な古代の巻物群が見つかった。その文書群の中には「創世記アポクリュフォン」として知られる書も含まれていた。当初それは、長らく失われていたラメクの書ではないかと考えられた。その巻物にはラメクの演説と、エノクからアブラハムに至る族長たちに関する物語が含まれていたが、実際にはその書ではなかった。
聖書によれば、ラメクはメトシェラの子であり、ノアの父である。彼は洪水以前の世界における十人の族長のうち第九番目の人物であった。
しかし重要なのは、この創世記アポクリュフォンがネフィリムに言及し、また創世記6章に導入される「神の子ら」と「人の娘たち」に言及している点である。さらにこのアポクリュフォンは、聖書における簡潔な記述を大きく敷衍し、これら古代の物語が古代ユダヤ人によってどのように理解されていたかについて、貴重な洞察を提供している。
クムランで発見された創世記アポクリュフォンの写本は紀元前2世紀に遡るが、その内容は明らかにそれよりもはるかに古い資料に基づいている。1947年に発見された時点では、長い歳月と湿気の影響によって著しく損傷していた。巻物の各シートはひどく貼り付いてしまっており、解読され内容が公にされるまでには何年もの年月を要した。ついに学者たちがその内容を公表したとき、この文書は、天上の存在が空から地球に降り立ったことを裏づけるものとなった。そればかりか、彼らが地上の女たちと交わり、その結果として巨人たちを生んだ経緯をも伝えているのである。
これは神話なのか、それとも歴史なのか。作り話なのか、それとも事実なのか。専門的研究は、多くの古代伝承が事実に基づいていることを明らかにしてきた。しかしこの問いに答えるために、人類に知られている最も権威ある文書――聖書――を参照することにしよう。
創世記6章1–4節によれば、「神の子ら」は「人の娘たち」の美しさに心を奪われる。彼らはその後、彼女たちを妻とし、その結果としてネフィリムとして知られる巨人の子孫が生まれた。さらに創世記は、このネフィリムが「勇士」であり、「名のある者たち」であったと記している。
「神の子ら」とは誰なのか。「人の娘たち」とは誰なのか。これらはどのような存在であったのか。彼らは人間であったのか、それとも宇宙空間から来た異星の種族に属する存在だったのだろうか。
神の子らの同定
「人の娘たち」の正体については問題がない。これは聖書において女性を指すためのよく知られた表現だからである。問題は「神の子ら」が誰であるかにある。この謎めいた呼称を説明するため、これまで主に三つの解釈が提示されてきた。
第一に、正統派ユダヤ教の一部では、「神の子ら」とは「貴族」あるいは「有力者」を意味すると考えられた。しかし今日、この見解を支持する者はほとんどいない。
第二に、「神の子ら」を堕天使と解釈する立場がある。彼らは地上の女性に魅了され、彼女たちに対して欲望を抱くようになったとされる。しかし多くの有力な聖書注解者は、この説を心理学的・生理学的観点から退けている。天から来た天使が地上の女性と性的関係を結び得ると、どうして信じられるのか、というのである。フィラストリウスは、この解釈をまったくの異端であると断じた。
第三に、多くの著名な学者たちは、「神の子ら」とはセツの男系子孫であり、「人の娘たち」とはカインの女系子孫であると主張している。この見解によれば、創世記6章で実際に起こったのは、信仰者が不信仰者と結婚した初期の事例であった。善良なセツの子らが、堕落したカインの娘たちと結婚し、その結果として混血の子孫が生まれた。彼らはやがて放縦と腐敗で知られるようになり、その堕落はついには神が介入して人類を滅ぼさざるを得ないほどにまで達したとされる。この立場を代表する見解として、マシュー・ヘンリーの次の言葉を挙げることができる。「セツの子ら(すなわち宗教を告白する者たち)が、人の娘たち、すなわち神と敬虔さを知らない不敬虔な者たちと結婚したのである。セツの子孫は本来そうすべきであったように、自らを区別して保たなかった。彼らは、カインの追放された系統と交わりを持つようになったのである。」(1)
しかし、この説を支持する人々の学識がいかに優れていようとも、その議論は説得力を欠いている。彼らの解釈は純然たるエイセゲシス(恣意的解釈)であり、本文に明らかに存在しない内容を読み込んでしまっているのである。
誤った釈義
この解釈は、他の点においても成立しない。洪水以前であれ以後であれ、神が「異族間の結婚」あるいは「信仰の異なる者同士の結婚」の罪ゆえに人類を滅ぼした、あるいは滅ぼすと脅されたことは一度もない。同じ行為について聖書の他の箇所では比較的穏やかな戒めが与えられているにすぎないのに、この箇所だけで人類滅亡という極端な刑罰が下されたと考えるのは整合しない。もし神が常に一貫して行動されるのであれば、人類はすでに何度も滅ぼされていなければならないことになる。
創世記6章2節において対比されているのは、セツの子孫とカインの子孫ではなく、「神の子ら」と「人の娘たち」である。もし「神の子ら」が「セツの子ら」を意味するとするなら、混合結婚を行ったのはセツの息子たちだけであり、娘たちは含まれないことになる。また関与したのはカインの娘たちだけであり、息子たちは含まれないことになる。さらに奇妙な前提も含意されることになる。すなわち、セツの息子たちだけが敬虔であり、カインの娘たちだけが邪悪であったという仮定である。
さらに、セツの子らが本当に敬虔であったことを示す証拠を求めると、この奇妙さはいっそう増す。神が人類を滅ぼそうとされた時、神が見いだされた敬虔な家族はノアの家族ただ一つであったことを、創世記は明確に伝えている。では、他のいわゆる敬虔なセツの子らはどこにいたのだろうか。セツ自身の子でさえ、義人と呼べる存在ではなかった。彼の名はエノスであり、「死すべき者」あるいは「弱い者」を意味する。そして彼はまさにその名のとおりであった。創世記4章26節にはこうある。「セツにもまた男の子が生まれ、彼はその名をエノスと名づけた。その時、人々は主の名を呼び求め始めた。」(強調引用者)この記述は一見無害に見えるが、「この時になって初めて人々が主の名を呼び求め始めた」とはどういう意味なのだろうか。では、アダムは誰に呼び求めていたのか。アベルはどうだったのか。そしてセツ自身はどうであったのか。
ある学者たちは、この節をより直訳的かつ厳密に、「その時、人々は自らをエホバの名によって呼び始めた」と訳している。また別の学者たちは、「その時、人々は自分たちの神々(偶像)をエホバの名によって呼び始めた」と訳している。もしこれらのいずれかが正しい訳であるならば、いわゆる敬虔なセツの系統を支持する証拠は存在しないことになる。実際のところ、エノスとその系統は、いくつかの例外を除けば、もう一方の系統と同じく不敬虔であったのである。神の記録はこれ以上なく明白である。「すべての肉なる者は地においてその道を乱していた」(創世記6章12節、強調引用者)。
旧約聖書において、「神の子ら」(ベネ・エロヒム)という呼称は、人間に対して用いられることは決してなく、常に人間より高く、しかし神よりは低い超自然的存在を指している。この範疇に当てはまる存在として知られているのは、ただ一つ、すなわち天使である。そして「神の子ら」という語は、善い天使にも堕落した天使にも適用される。これらの存在について、アウグスティヌスは次のように記している。「彼らは神々のように身体をもって不死であり、しかも人間のような情念を有している。」(2)
「神の子ら」という呼称は旧約聖書においてさらに四度用いられており、いずれの場合も天使を指している。その一例がダニエル書3章25節であり、ネブカドネザル王は燃える炉の中をのぞき込み、そこに四人の男を見て、「第四の者の姿は神の子のようだ」と述べる。現代の多くの訳では、より明確に「神々の子のようだ」と訳されている。イエスがまだ神の「独り子」となられる以前の出来事であるから、この「子」は天使的存在であるほかない。
もう一つの例はヨブ記38章7節であり、そこでは神が地の基を据えられたとき、「神の子ら」が喜びの声をあげたと記されている。その時点ではまだ人間は創造されていなかったので、この呼称に当てはまる存在は天使以外にあり得ない。
ヨブ記1章6節および2章1節では、「神の子ら」が主の前に出るため天に集まったと記されている。そしてその中にはサタンも含まれていた。これもまた、「神の子ら」が天使的存在であることを示すさらなる証拠である。
神の子ら―三つの区分
新約聖書においては、キリストにあって新しく生まれた信者たちが神の子、あるいは神の子らと呼ばれている(ルカ3章38節、ヨハネ1章12節、ローマ8章14節、第一ヨハネ3章1節)。『コンパニオン・バイブル』においてブルンガー博士は次のように述べている。「いかなる被造物であれ、『神の子』と呼ばれ得るのは、神による特別な創造による場合のみである。」これは、すべての新生した信者が神の子と呼ばれる理由を説明する。また、アダムが神の子であった理由も説明する。アダムは神によって特別に創造され、「神のかたちに」造られたからである(創世記5章1節)。しかしアダムの子孫は異なっていた。彼らは神のかたちに造られたのではなく、アダムのかたちに生まれたのである。アダムは「自分のかたち、すなわち自分の姿に似せて」子をもうけた(創世記5章3節)。アダムは「神の子」であったが、アダムの子孫は「人の子ら」となったのである。
ルイス・スペリー・チェーファーは、この点を次のように興味深く表現している。「旧約聖書の用語法では、天使は神の子らと呼ばれ、人間は神のしもべと呼ばれている。しかし新約聖書ではこれが逆転する。天使はしもべであり、クリスチャンが神の子らと呼ばれるのである。」(3)
したがって、聖書において「神の子ら」という語が適用される存在は三つの範疇に限られていることが明らかになる。すなわち、天使、アダム、そして信者である。これら三者はいずれも、神による特別かつ直接の創造に属している。創世記6章におけるこの語の用法について言えば、それがアダムを指すことも、キリストにある信者を指すこともあり得ない以上、神によって創造された天使たちを指していると結論せざるを得ない。
新約聖書からの光
新約聖書には、創世記6章にさらなる光を当てる二つの箇所がある。ユダの手紙6–7節と、ペテロの第二の手紙2章4節である。これらの節は、ある時点において、一定数の天使が本来の清い状態から堕落し、異常で忌まわしい性的罪を犯すに至ったことを示している。ユダ6–7節には次のようにある。「また、彼らの本来の位を守らず、自分の住まいを捨てた御使いたちを、主は、大いなる日のさばきのために、暗闇の下で永遠の鎖につないで留めておられる。ソドムとゴモラおよびその周辺の町々も、同じように淫行にふけり、異なる肉を求めて、永遠の火の刑罰を受け、見せしめとされたのである。」
これらの天使は、自らに与えられていた本来の支配的地位と権威を守らなかっただけでなく、「自分の住まい」をも捨てたのである。「住まい」という語は重要であり、「住居」あるいは「天」を意味する。そしてギリシア語の idi(自分自身の)という語が付加されていることにより、彼らが自らの私的で個人的、固有の領域を離れたことが示されている。(4) 天は天使たちの私的かつ固有の住処であった。それは人間のために造られたのではなく、天使のために備えられていたのである。このため、聖徒たちの究極の行き先は天ではなく、神が創造される新しく完全な地であるとされる(黙示録21章1–3節)。天は天使のために備えられているが、ユダ6–7節で言及される存在たちは、それを自ら放棄したのである。
さらに、これらの天使は一度限りの決定として天を離れた。ギリシア語の動詞 apoleipo はアオリスト時制で用いられており、一回的で決定的な行為を示している。彼らは自らの行為によって、最終的かつ取り返しのつかない決断を下したのである。いわば、ルビコン川を渡ったのである。ケネス・ウーストの言葉によれば、それは「徹底した背教行為」であった。(5)
これらの天使が犯した具体的な罪については、ユダの手紙7節に事実が示されている。ソドムとゴモラの場合と同様、それは「淫行」と「異なる肉を求める」罪であった。「異なる」肉とは、別種の肉、すなわち異なる種類の存在を意味する(ギリシア語 heteros)。この特に忌まわしい罪を犯すために、天使たちは自らの領域を離れ、神によって禁じられていた領域へと侵入しなければならなかった。ウーストは次のように述べている。「これらの天使は、自らの本性に定められた限界を越え、異なる本性を持つ被造物の領域へ侵入したのである。」(6) アルフォードもまたこう確認している。「それは、自然に定められた道から逸脱し、神によって自然な欲求の成就のために定められた対象とは異なる肉を求める、不自然な行為であった。」この二つの存在の秩序が混合することは、神の意図に反するものであり、その結果として、人類に対してこれまでに行われた最大の神の裁きがもたらされたのである。
天使への誘惑
新約聖書には、創世記6章と関係している可能性のあるもう一つの節がある。第一コリント11章10節において、パウロは、女性は夫への服従のしるしとして頭を覆うべきであり、さらに「御使いたちのためにも」そうすべきであると教えている(強調引用者)。この言及は、長年にわたり注解者たちの関心を引いてきた。なぜここで突然天使が言及されるのだろうか。それは、地上の女性の魅力に天使たちが屈した創世記6章の出来事を指している可能性があるのだろうか。少なくともパウロは、頭を覆わない女性の姿が、天使にとってさえ誘惑となり得ると考えていたようである。ウィリアム・バークレーは、創世記6章において天使たちを誘惑したのは女性の長い髪の美しさであったとする古いラビ的伝承に言及している。
異様な出自
「神の子ら」と「人の娘たち」との結合から生まれた子孫は、その出自が通常ではないことを示すほど異常な存在であった。このような存在の祖先が通常の人間であったとは到底考えられない。母親が人間であった可能性、あるいは父親が人間であった可能性はあるとしても、両親ともに人間であったとは考え難い。父または母のいずれかは超人的存在でなければならない。そのように考えて初めて、その子孫の並外れた性質や力を説明することができる。
聖書の創造の記録によれば、生殖に関する神の法則は「それぞれその種類に従って」というものである。この神の法則に照らせば、通常の親から巨人が生まれることはあり得ない。ネフィリムのような異様な存在が生まれるためには、超自然的な親を前提としなければならないのである。
巨人?
「ネフィリム(Nephilim)」はヘブライ語であり、欽定訳聖書(KJV)では「巨人」と訳されている。「そのころ、地上には巨人がいた」(創世記6章4節)と記されている。確かに彼らは、さまざまな意味で「巨人」であった。しかし、「ネフィリム」という語そのものが「巨人」を意味するわけではない。この語は「倒れる」を意味する語根 naphal に由来し、「堕ちた者たち」を意味する。こうした理由から、現代の多くの聖書翻訳では「ネフィリム」という語を翻訳せず、そのまま残している。
ギリシア語七十人訳聖書(セプトゥアギンタ)が作成された際、「ネフィリム」は gegenes と訳された。この語は「巨人」を連想させるものの、実際には大きさや力を直接意味するものではない。gegenes は「地より生まれた者」を意味する。この語はまた、神話上の「ティーターン(タイタン)」を指すためにも用いられており、彼らは天的要素と地上的要素の双方を有する存在と考えられていた。(7)
ヘブライ語およびギリシア語の語義はいずれも、彼らが卓越した身体的力を持っていた可能性を排除するものではない。実際、超自然的存在と人間との結合による出自を想定すれば、そのような特徴は当然に含意されるであろう。聖書によれば、天使は力ある存在として知られており、「力ある勇士たち」(詩篇103篇20節)とも呼ばれている。したがって、もし彼らの父が力ある存在であったなら、その子孫もまた同様に強大であったと推測することができる。
これに対して、いわゆる混合結婚(信者と不信者との結婚)から生まれた子孫が巨人となり、並外れた力を持ったという証拠は聖書のどこにも存在しない。さらに言えば、そのような事例は歴史上にも見いだされない。この解釈は、受け入れがたい前提を必要とするのである。
民数記13章33節において「ネフィリム」という語が用いられる際には、その巨大さと力の問題が明確に示されている。ここでは彼らの超人的な力について疑う余地はない。ヨシュアの斥候たちがカナンの地から戻って報告した際、彼らはカナンの住民の一部を「巨人」と呼んだ。「そこで我々はネフィリムを見た。アナクの子らはネフィリムの出であり、我々は自分たちの目にはバッタのように見え、彼らの目にもそのように見えた。」
一部の注解者は、民数記13章に現れるネフィリムは、洪水によって滅ぼされた以前のネフィリムとは別に、堕落した天使たちによる第二の出来事の結果であると推測している。そして彼らは、このことへの示唆が創世記6章4節に見られると考える。そこには「そのころ、またその後にも、神の子らが人の娘たちのところに入り…ネフィリムが地にいた」と記されている(強調引用者)。この「その後にも」という表現は、イスラエル人がカナンの地に入った時代に見られたネフィリムを指しているのだろうか。もしそうであるなら、主がかつて人類をほぼ滅ぼされたのと同様に、カナン人の全面的な滅ぼしを命じられた理由を説明する一助となるかもしれない。
ネフィリム――復活なし
イザヤ書によれば、ネフィリムおよびその子孫は、通常の人間に与えられる復活にはあずからないとされている。イザヤ書26章14節には、「彼らは死んでよみがえらず、亡霊となって立ち上がらない」とある。ここで「亡霊」と訳されている原語はヘブライ語の「レファイム(Rephaim)」である。もし翻訳者たちがこの語を原語のまま残していれば、多くの誤解は避けられたであろう。実際の意味は、「彼らは死んで生き返らず、レファイムはよみがえらない」というものである。レファイムは一般にネフィリムの一系統であると理解されており、神の言葉は彼らが復活にあずからないことを明確に示している。しかし人間については事情が異なる。すべての人間は、命への復活か、あるいは裁きへの復活のいずれかにおいてよみがえるのである(ヨハネ5章28–29節)。
すでに見たように、旧約聖書のギリシア語訳(七十人訳)は「ネフィリム」を gegenes と訳しているが、ここで「神の子ら」がどのように訳されているかを見てみよう。いくつかの写本ではそのまま「神の子ら」とされているが、他の写本、特にアレクサンドリア系の本文では angelos(天使)と訳されている。この本文はキリストの時代にも存在していたが、主イエスがこの訳に対して訂正や異議を唱えたという記録はない。もし主が沈黙しておられたのであれば、その翻訳を承認しておられたと考えてよいのではないだろうか。
「セツの子ら」説を支持するあらゆる議論を検討した結果、その中で妥当と言える唯一の要素は、それが理性的に受け入れやすいという点であるという結論に至る。「セツの子ら」という解釈は、人間の理性には受け入れやすい。堕天使が地上の女性と性的関係を持ったなどという驚くべき主張を、理性は容易に受け入れることができないからである。天使には肉体がない。結婚もしない。彼らはまったく異なる存在の種に属している。思考はこうした主張に対して反発を覚える。ではどうするのか。もちろん、より理解しやすい解釈、すなわちセツの子らとカインの娘たちという説明に落ち着くのである。しかし、もし聖書の意味が明らかにそれとは異なっているとしたらどうであろうか。問題はそこにある。聖書の記述は明らかに別のことを示しているのである。神の言葉の明白な意味を犠牲にして人間的解釈を押し付けることは、聖書本文への暴力に等しい。さらに言えば、超自然の領域を扱う場合、理性は決して最終的な判断基準とはならないのである。
ユダヤ教および教父たち
創世記6章2節のこの表現を解釈する際、ユダヤ教の教師たちは一様にこれを「天使」と理解してきた。この点について、W・F・オルブライトのような権威ある学者も次のように述べている。「この箇所(創世記6章2節)を聞いたイスラエル人は、疑いなく天使と女性との交わりを思い描いたのである。」(8) アレクサンドリアのフィロンは、深い宗教的敬虔さを備えた人物であり、この主題について「巨人について(Concerning the Giants)」と題する簡潔ながら美しい論考を残している。彼はギリシア語訳聖書に基づいて解釈し、この表現を「神の天使たち」と訳している。バンバーガーは次のように述べている。「もし彼の用いた本文に『神の子ら』という語があったなら、彼は必ずそれについて論評していたに違いない。」(9)
フィロンは確かに創世記の記事を歴史的事実として受け取っていた。彼は、「魂」という語が善なる存在にも悪なる存在にも適用されるのと同様に、「天使」という語もまた両者に用いられると説明している。すなわち、ルシファーに従った悪しき天使たちは、やがて肉体的欲望の誘惑に抗しきれず、それに屈したのである。さらに彼は、巨人の物語は神話ではなく、人間の中には地に属する者、天に属する者、そして最も高い者として神に属する者がいることを教えるために存在しているのだと述べている。(10)
初代教会の教父たちも同様の理解を持っていた。ユスティノス、イレナイオス、アテナゴラス、テルトゥリアヌス、ラクタンティウス、エウセビオス、アンブロシウスなど、多くの教父がこの解釈を採用している。ニケア公会議以前の教父文書には、「天使たちは処女たちへの不純な愛に陥り、肉に屈服した……その処女を愛した者たちから、いわゆる巨人たちが生まれた」と記されている。(11) また別の箇所では、「天使たちは罪を犯し、女性への愛に捕らえられて子どもをもうけた」と述べられている。(12)
紀元五世紀以前に、「神の子ら」を天使以外のものとして解釈する例は見いだされない。ユダヤ教の教師たちが自らの用語の意味を知らなかったと考えることはできない。彼らは一貫して「神の子ら」を「天使」と訳してきたのである。さらに、あの国際的で博識な歴史家ヨセフスの証言も極めて重要である。彼の大著『ユダヤ古代誌』において、彼は堕天使が地上の女性と交わったという伝承に通じていたことを明らかにしている。彼はその伝承を知っていただけでなく、その結合から生まれた子どもたちが超人的な力を持ち、また極度の邪悪さで知られていたことをも伝えている。「伝承によれば、これらの人々は、ギリシア人が巨人と呼んだ者たちの行為に似たことを行ったのである。」さらにヨセフスは、ノアがこれら天使の子孫の悪行を戒めたことにも言及している。(13)
おそらく、「神の子ら」を天使と解釈する最も決定的な論拠は、実に単純な点にある。もし創世記の著者が「セツの子ら」を指したかったのであれば、そのように明記したはずである。もし神がその意味を意図されたのであれば、その節は疑いなく「セツの子らがカインの娘たちの美しさを見た」と記されていたであろう。しかし聖書が示しているのは、はるかに不気味な出来事――地上の邪悪な女性と、地獄から来た天使との性的結合であった。このような結合の重大さと、それが人類にもたらした致命的結果のゆえに、人類が自らを滅ぼす前に、汚染されていなかった一つの家族を除いて、神は人類を滅ぼすことを決断されたのである。
究極の罪
神はご自身のかたちに人を造られ、それは地上の被造物の中で最高の存在であった。神は造られたすべてのものを良しとされたが、人については「非常によかった」と言われた。人は神ご自身との交わりのために造られたが、やがて創造主に背を向け、創造主よりも被造物を拝むようになった。そして幾世代も経ぬうちに、人類は悪霊との忌むべき結合によって汚されていった。まるで地と地獄とが天の神に対して同盟を結んだかのようであった。神の義なる怒りは激しく、神は人を造ったことを悔やまれるほどであった。「主は地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪にのみ傾くのをご覧になった。そして主は地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」(創世記6章5–6節)まさにこの究極の罪のゆえに、神は人と獣とを地の面から滅ぼすほどの大洪水をもたらされたのである。古い時代のヨセフ・ホールの言葉を借りれば、「世界は罪によってあまりに汚れたため、神は洪水によってそれを洗い清める時が来たと見られた。しかし、悪はその行いの主体にあまりにも深く結びついていたため、彼らが滅ぼされてもなお、それは完全には洗い流されなかった。いや、それは地そのものの繊維にまで染み込み、神はそれを長く水の下に沈めておくことが適切であると見られたのである。」(14)
なぜノアは免れたのか
この大いなる裁きからノアとその直系家族だけが免れた理由は重要である。創世記6章9節には、「ノアは正しい人であった」と記されている。彼は堕落した時代の中で、義と敬虔の模範として際立っていた。エノクと同様に、ノアもまた「神とともに歩んだ」人物であった。しかし、ノアが救われた理由はそれだけではない。多くの注解者が見落としているもう一つの理由がある。創世記6章9節は、ノアが「その世代において完全であった」とも述べている。これは道徳的、霊的に完全であったという意味なのだろうか。決してそうではない。創世記9章20–23節は、そのような完全性を否定している。では、聖書は何を意味して彼を「完全」と呼んでいるのだろうか。ここで用いられているヘブライ語は tamiym であり、語根 taman に由来する。この語は、出エジプト記12章5節、29章1節、レビ記1章3節に見られるように、「傷のない」という意味を持つ。犠牲として献げられる小羊が身体的欠陥のないものでなければならなかったのと同様に、ノアの「完全さ」もまたその意味である。この語の第一義は道徳的・霊的性質ではなく、身体的純粋性を指す。ノアは外来の侵入者によって汚染されていなかったのである。堕天使によってもたらされた広範な腐敗にもかかわらず、彼だけがその血統を保ち、純粋に維持していた。(15) さらに言えば、「ノアの血統は遺伝的汚染から守られていた」のである。(16) これは、地上の他のすべての家族がネフィリムによって汚染されていたことを意味する。またそれは、サタンによる人類への攻撃が、一般に理解されている以上に広範であったことをも示している。ゆえに、神が全地的な裁きを宣告されたのも不思議ではないのである。
この忌まわしい行為に加わった堕天使たちについては、神は彼らを「大いなる日のさばきまで、暗やみのもとに永遠の鎖でつないで閉じ込めておられる」(ユダ6節)。これは時にタルタロス、あるいは「地下の深淵」(第二ペテロ2章4節)を指すと解釈される。このことはまた、ある堕天使たちが拘束されている一方で、他の者たちが天をさまよい、人類を苦しめることを許されている理由をも説明する。
このように人間にも天使にも科された苛烈な罰は、それに見合う苛烈な罪を前提としている。それは単なる異族間の結婚などではなく、悪魔の領域が人間世界を歪めようとした試みそのものであった。遺伝的支配と混血種の創出によって、サタンは神がご自身のために造られた人類を奪おうとしたのである。
もしサタンが人類の腐敗に成功していたなら、彼は神の完全な御子、すなわちサタンを打ち砕き、人の支配を回復させると約束された「女の子孫」(創世記3章15節)の到来を妨げていたことになる。もしサタンが何らかの方法でその誕生を阻止できたなら、彼は自らの滅びを回避できたはずである。実際、サタンはかなりの程度において成功していた。だからこそ、神は洪水によって人類を滅ぼされたのである。
天使は性を持たないのか
「神の子ら」を堕天使と解釈するとき、すぐに次の疑問が生じる――天使は結婚するのか。マタイ22章30節でイエスは、天使は結婚もせず、また嫁ぐこともないと言われた。これは明確な否定のように見える。しかし、それは神の御心に反してそのようなことが起こり得ないことまで排除しているわけではない。すでに神に反逆していた堕天使たちが、聖書の記述するように地上の女性と交わった可能性まで否定するものではない。
イエスの言葉を、天使は互いの間で結婚しないという意味に解釈する者もいる。それは、彼らがすべて男性だからなのだろうか。あるいは、天上の存在は死ぬことがなく、ゆえに子孫を必要としないからなのだろうか。地上の存在だけが、子孫によってある種の不死性を求めるのである。(17) しかし、彼らが結婚や生殖を必要としないとしても、性的行為そのものが可能であるかどうかは別問題である。もし互いの間ではないとしても、人間との間では可能なのだろうか。ユダ書はこの点についてかなり明確である。そこでは、天使たちが自らの住まいを離れ、淫行にふけり、異なる肉を求めたと述べられている。言い換えれば、彼らは人間の行為――食べ、飲み、歩き、語り、さらには性的行為を行い、子をもうけることさえ可能であったと理解されるのである。
天使が結婚しないという事実それ自体は、彼らが無性であることを証明するものではない。聖書全体を通して、天使は常に男性として言及されている。フィニス・ドレイクは次のように記している。「論理的に言えば……女性は、人類が存続するために特別に創造されたのであり、一方で天使は、その種が生殖過程なしに存続するゆえに、すべて男性として創造されたのである。天使は初めから数え切れないほど創造された(ヘブル12章22節)のに対し、人類の多数は一組の男女から始まった。」(18)
さらに、来るべき世界において聖徒たちが復活の身体をもって永遠に生きるとしても、それが彼らの無性化を意味するわけではない。聖書は、復活において各人が自らの身体を持つことを教えている(第一コリント15章35–38節)。そこには性別が失われるという示唆はまったく見られない。加えて、キリストは復活後もなお人として存在しておられた。
解き放たれた堕天使たち
もう一つの疑問が提起されている。もし創世記6章において地上の女性を欲した堕天使たちが「永遠の鎖」でタルタロスに拘禁されたのなら、それ以降活動している悪霊たちはどのように説明されるのだろうか。彼らはイエスの宣教の時代に非常に活発に活動していたし、現代においても活動しているように見える。この推論に従い、ケント・フィルポットの次の結論を共有する者もいる。「創世記6章1–4節を第二ペテロ書およびユダ書の記述と結びつけて解釈しようとすると、解決される問題よりも、はるかに多くの問題を生じさせてしまう。しかし第二ペテロ2章4節とユダ書は、反逆した天使たちが『暗黒の深淵』に閉じ込められていることを明確に述べている。もし彼らが囚われの身であるなら、新約聖書に描かれる悪霊のように活動することはできないはずである。」(19) しかしフィルポットは、堕天使には二つの区分があることを見落としている。すなわち、ルシファーと共に天から追放され、なお人類を苦しめるために自由に活動している者たちと、人の娘たちと肉体的関係を持つという罪を犯して第二の堕落に陥った者たちである。この第二の区分に属する霊たちが、地下の深淵に鎖でつながれているのである。
私には、「神の子ら」とはほかならぬ堕天使たちであり、さらに「人の娘たち」を欲するという罪を重ねたために、その多くが神によって幽閉されたのだということが明白に思われる。人類のほぼ完全な滅亡と、堕天使たちのタルタロスへの拘禁とは、彼らの犯した罪の重大さを示している。このような苛烈なさばきによって、神は人類を、当初彼らに定められた肉体的死よりもさらに深刻な災厄から救い出されたのである。
注:
1. Matthew Henry’s Commentary (Grand Rapids: Zondervan Publishing House, 1961).
2. Aurelius Augustine, The City of God, Trans. Marcus Dods (Edinburgh: T. & T. Clark, 1949).
3. Lewis Sperry Chafer, Systematic Theology, Volume 2. (Dallas: Dallas Seminary Press, 1947), 23.
4. Kenneth S. Wuest, Word Studies in the Greek N.T., vol. 4 (Grand Rapids: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1966), 240.
5. Ibid., 240.
6. Ibid., 241.
7. Unger, Biblical Demonology (Wheaton: Van Kampen Press, 1957), 48.
8. W F. Allbright, From the Stone Age to Christianity (Baltimore: John Hopkins Press, 1940), 226.
9. Bernard J. Bamberger, Fallen Angels (Philadelphia: The Jewish Publication Society of America, 1952), 53.
10. Philo, DeGigantibus, 58–60.
11. The Ante-Nicene Fathers, Vol. 8, 85 and 273.
12. Ibid., 190.
13. Josephus, The Work of Flavius Josephus; Antiquities of the Jews (London: G.G. Rutledge), 1.3.1.
14. Joseph Hall, Contemplations (Otisville, Michigan: Baptist Book Trust, 1976), 10.
15. Companion Bible (Oxford University Press), Appendix 26.
16. The Gospel Truth Magazine 18, no. 7 (June 1978).
17. Dr. Morgenstern, Hebrew Union College Annual, XIV, 29–40, 114ff.
18. Finis Dake, Annotated Reference Bible, 63.
19. Kent Philpott, A Manual of Demonology and the Occult (Grand Rapids: Zondervan Publishing House, 1973), 77—78.
以上の論考は、
「The Omega Conspiracy - Satan's Last Assault on God's Kingdom」 - I.D.E. Thomas
から抜粋し、自動翻訳によって翻訳したものである。
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